I'm not OK

小説、映画、音楽の感想など

映画「君の名は。」

ねたばれあり。

感動的のような複雑でよくわからないような、なんとも表現しづらい映画でした。

歴史改変SF × ボーイミーツガール

なんだろうと思います。
しかし厳密に言うとボーイミーツガールではない。会ってはいない。あるいは、会った、と過去形で言うべきでしょうか。

映画を観た直後で頭が混乱しているので、とりとめもなく思ったことをつらつらと書いていきます。

恐らく今しか使えない使い方でしょう。
スマホ=現代の若者の風俗を描いている、という先入観から、驚くべき時間差トリックにひっくり返されます。

スティーブ・ジョブズが初代iPhoneを発表したのは2007年。もうすぐ10年が経とうとしています。それが日本の田舎の高校生まで普及するのは多少タイムラグがあるでしょうが、もうそんなに昔からある商品なんだなー。

作品の途中、スマホ経由でアップした日記(アプリ?)が消える描写は、やや強引な気もしましたが、「Back to the future」でもあったかな。

  • 様々なガジェットを使って奇跡を作り出している

黄昏時の由来、火山の噴火口の淵(?)という地上と宇宙の触れ合うところ、男と女、過去と未来、東京と地方、昼と夜の境、2回に渡る隕石の落下(の後のピーナッツ型の湖)、離婚した親たち……それから割れる隕石。2つに分かれるというモチーフが積み重なり、麻痺するような感覚を覚えるところに無茶苦茶に綺麗な映像で奇跡を描いてしまう。

思いつきですが、もしかしたら、田舎編での丸い湖や火口の円周に対応するのは、都会では山手線なのかもしれません。水と陸の境界、俗世とあの世の境界、人々の生活や通学、通勤をぐるぐるとかき回す山手線、それらの円周上で男の子と女の子は出会う、というとかっこつけすぎですが。

  • 歳の差

言の葉の庭」という過去作品では、年上の少し影のある女性が相手ということで、つながれたのかもしれません。

それで言うと、この「君の名は。」でも男主人公のバイト先の年上のお姉さんといい、ラストのヒロインといい、年上の女性というのが重要な気がします。また、「言の葉の庭」同様、ラストで主人公は学生を抜けて大人になろうとしています。恐らく男主人公は学生/大人という境界にいる瞬間にいて、そしてヒロインは大人だからこそ会うことができたんだろうと思います。ヒロインは25歳になつんたんだろうし、20代後半で名前を覚えていない運命の人を待つのも大変になってきそうです。

都内でそれまでもすれ違う機会はあったかもしれないし(実際それらしいシーンもある)、男主人公が就職活動で毎日都内のあちこちを電車で移動しているからこそすれ違えたということなのかな。そういう意味では、まだ会社勤めをして生活圏が固定化される直前、ギリギリの最後のチャンスだったとも言えるでしょう。

男主人公から見て年上の女性、というのは何か会える条件としてどういう機能を果たしているのだろう? 同じ歳の人だと、恐らく近過ぎる。新海誠作品では、恋の主人公たちは同じ一つの魂のかたわれのように描かれると思います。全作品観てませんが。

同じ魂を一時的に共有してしまうので、ある意味すでに完成してしまっていて、その後前に進むことができない。社会で生きていくためには別れて個として働き、例えば都内のどこかのマンションの一室に自分を埋め込まなければならない。また、その後別の異性と会っても、もう2度と同じような感覚を持つことができない。そして、永遠に魂の片割れを探して孤独にさまようことになる(「秒速五センチメートル」)

その宙吊り感というか、失った魂の片割に憧れ続ける異様に思いつめた感情、気の遠くなるような感覚が新海誠監督作品の魅力でありヤバさだろうと思います。

一方で、「言の葉の庭」では、年上の女性がヒロインとなり、大人の世界の影をすでに持っています。純粋さを持っているために彼女は社会からはみ出しており、そのために男主人公のことを理解でき、また少年を閉鎖的で幼稚な学生の世界に決別させ、大人の社会に導く役割を果たします。

この、年上の女性というのは、魂を一部男の子と共有しつつも半分ずれていて、もう半分は社会につながっている存在なんだろうと思います。

そういう意味では、この「君の名は。」は二次方程式の解というか、入れ替わって生活を交替するという形で人生を共有しつつ、しかし現実には歳はずれている、というアクロバティックな位置にあります。これにより、「同じ魂の片割れを探す」という不可能なテーマと、「年上の女性に導かれて、追うように少年が社会に出ていく」という展開がまさかの融合を果たしています。

  • 男の子が社会に出る、というところをもう少し考えてみると、新海誠作品では、男の子は技術者や職人の道に行くことが多いよう思います。靴職人とか、本作では建築方面でしょうか。

それが、就職活動の様子を見ると建築会社を受けつつも、作品のポートフォリオを持ち込んでというよりは、人のために頑張ります的な営業や総合職っぽい志望をしているように見えます。これはいいバランスだなと思いました。技術者や靴職人、プログラマーなど、孤独で職人気質な形で社会に居場所を作ろうとするのは、男の憧れとしてはタイプとしてあります。その究極形は宮崎駿監督「風立ちぬ」の戦闘機開発者でしょうか。男のナルシシズムでもあると思います。

それが本作では、建築会社の営業的な職種で、人の中で生きていくという感じでよかったです。友人もいるし。そういう、オタクの男のナルシシズムな職人への憧れ路線ではないところも、この映画が幅広い層に大ヒットしている要因の一つかなと思いました。

  • 不足を感じたところ

男女それぞれの主人公たちがどういう人たちなのか、いまひとつわかりませんでした。話の冒頭から入れ替わって、男女/都会と田舎があべこべ、というコメディから始まるので、都会の男の子/田舎の女の子 という役割にとどまっている気がしました。

基本ひたむきで一直線でいい人たちなので好感は持てましたが、物語の途中で成長するという感じはしませんでした。

クライマックスでヒロインが父親に本気で交渉するのも、それまで父親が怖くて話せないとかだったら、男主人公の愛の力で克服した、というような熱い変化を感じたかもしれませんが、なんで父親が「おっ、なんか違う」と思ったのか説明が不足している、あるいはエピソードや小道具不足な気はしました。

脇役のヒロインの友人カップルの方がクライマックスで一皮むけて成長している感がしました。

男主人公も、なにか暗いところや孤独感があるわけでもなく、素直にがんばってるなという感じでした。唯一の冒険は神社のご神体のところに挑むところでしょうか。しかしヒロインは自転車とダッシュで同じところに行ったしな…

バイトなど自分の都心の生活ばかりで、地方の災害など他人事にして生きてきてしまった、今までの自分は子供だった、というような後悔やそこからの怒涛の巻き返しての歴史改変、というような成長が描かれると、カタルシスを感じたかなと思いました。

という話と関係ないけど、彗星が分裂するところで、それが災害や悲劇をもたらすものなのに「それはただただ美しかった」と審美的に言ってしまうのは、なんとなくやばい感じがあってぞくぞくしました。圧倒的な危険ものに魅了されてしまうというか。「シンゴジラ」におけるゴジラもそんな感じでしたが。

  • クライマックスの展開

この辺はもう時間軸とか誰の中身が誰なのかとかよくわからない感じの展開であれよあれよと進行して迫力がありました。彗星ががんがん飛んでくる中での発電所の爆破とか、坂道で転んでもう絶望か、などの展開は、まさかのエンターテインメントのアクションという感じで驚きました。「シンゴジラ」のラストの戦いの場面でも似たようなことを感じましたが、なんというかこの畳み掛けるような、絶望感とそこから努力でなんとかする形で加速していく様は、ある種の美学と伝統を感じました。火薬の量や超人的アクションではなく、平凡な人たちの努力が崇高さを感じさせる瞬間というか。それまで静かで叙情的だったのに、急にギアが入ってアクションシーンに突入する、静/動の極端なメリハリの見栄というか。少ない予算を一箇所に集中する一点豪華主義の美学というか。

いろいろとりとめのないことを書いてしまいましたが、なんか良いものを見たような、変なものを観たような、不思議な感覚の映画でした。

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